東海道五十三次・街道を歩く  2020.10.6~8日

小田原宿から大磯宿、平塚宿、藤沢宿を経て戸塚宿まで 3日間 48.8km 
京都三条大橋から戸塚宿 延べ  459.2km



小田原宿スタート地点 鈴廣前
板橋延命子安地蔵尊の石碑
小田原城の旧石垣
小田原城馬出門
小田原城正面 馬出門
銅門。あかがねもん。
本丸へと通じる大手筋に設けられている
枡形門。扉の飾り金具に銅が用いられている
ことが名前の由来
常盤木門を望む
場内のイヌマキ。
樹齢約520年以上。幹回り4.5Mに及ぶ。
常盤木門。
本丸。天守閣。
石垣からの高さは27.2Mで全国7位。
有名な小田原ういろうの本店。
小田原本陣跡。
江戸口見附一里塚跡
江戸口見附跡
大山道道標
大山道道標。天保5年建立の道標。
黄色く彩色された不動明王を乗せており
「従是大山道」と刻まれている。
車坂
旧東海道に残る土手
池田候の別荘跡
伊藤博文別荘跡地
上方見附跡
鴫立庵。
1664年小田原の崇雪がこの地に五智如来像を運び、
西行寺を作る目的で草庵を結んだのが始まり。
1695年俳人の大淀三千風が入庵し鴫立庵と名付けた。
京都の落柿舎、滋賀の無名庵とともに
日本三大俳諧道場の一つと言われている。
カエルのモニュメント。
湘南発祥の地の碑。
大磯が中国湖南省を流れる湘江の南部
に似ていることから江戸期に命名された。
新島譲の終焉の地
新島譲終焉の地。
明治23年1月23日療養先のここ大磯の百足屋旅館で
志半ばで47才の生涯を終えた。
大磯宿本陣跡。
江戸見附跡。
宿場の出入り口に作られた構造物で、
本来は簡易な防御施設として設置された。
松並木
大磯八景「化粧坂の夜雨」の案内看板。
明治40年ごろ大磯5代町長宮代謙吉が
大磯の名所八景を選んで絵葉書を出版したのが始まり。
大磯小学校代2台校長朝倉敬之が
自作のの歌を刻んだ記念碑。

「雨の夜は静かりけり化粧坂松の雫の音はかりして」
道路両側に残る松並木
広重の大磯虎ヶ雨。
高麗山
平塚宿の石碑
平塚の塚の由来看板。
里人の言い伝えとして、昔、桓武天皇の三代孫、
高見王の娘政子が、東国へ向かう旅をした折、
天安元年8572月この地で逝去した。
柩はここに埋葬され、墓として塚が築かれた。
その塚の上が平らになったので里人はそれを「ひらつか」と呼んできた。
これが平塚という地名の起こりとなった。
平塚の名前の由来となった平塚
平塚の塚碑
旧相模川橋脚
復元した橋脚
南湖の左富士由来の看板。
東海道には富士山を左手に見る
場所はここと吉原の二か所。
茅ヶ崎の一里塚跡。
義経首洗い井戸の説明看板。
1189年に衣川で兄頼朝に攻められ義経が自害した。
腰越で首実験の後に浜に捨てられた義経の首は、
潮にのって川をのぼり、里人に拾われて
この井戸で清められたと伝えられている。
井戸です。
江の島弁財天道標。
江の島への道筋に建てられた道標の一つ。
正面の弁財天を表す梵字の下「にゑのしま道」右側面に
「一切衆生、左側面に「二世安楽」と彫られています。
この文言には、江の島弁財天への道をたどる
すべての人現生・来生での安穏・極楽への願いが込められています。
遊行寺。一遍上人を開祖とする時宗の総本山。
遊行寺本堂
遊行寺境内のイチョウの大木。
樹齢650年から700年。樹高21M、幹回り710CM。
「お軽勘平戸塚山中遊行の場」の碑
ゴール地点、戸塚宿。


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