可児市の山城巡り  

羽崎城跡・久々利城跡・大森城跡・今城跡・明智長山城跡・土田城跡
4月5日/4月18日(木)
       
       

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羽崎城跡。
守護土岐氏一族の羽崎氏の居城。
土岐一族羽崎氏の拠点。
土岐康貞の三男羽崎光直により築城。
土岐康貞は美濃守護職土岐頼康。
の弟で南北朝時代の武将。
1352年に南朝方の和田正忠との戦いで戦死。
土岐康貞は久々利城を本拠とし、
三人の子が久々利、宇田、羽崎の領地を継ぐ。
羽崎城の全容。
久々利城。土岐康貞の長男が久々利太郎行春と称す
。久々利氏は天文6年(1537)から10年にかけてした。
烏峰城(後の美濃金山城)主の斎藤妙春と戦い
天文17年には妙春を久々利城で暗殺。
その後信長の美濃攻めを警戒した久々利氏は
信玄と手を結ぶも、信長が中農攻略を成功させると
信玄は信長と手を結んだ。後ろ盾を失った久々利氏は
信長の家臣の美濃金山城主の森可成に従うも
天正11年(1583)に可成に次ぐ美濃金山城主森長可
により久々利氏は討たれ久々利城は落城。
三の丸跡。
切岸。敵の侵入を阻むため曲輪の周辺斜面を
断崖のように切り盛りした造作。
本丸跡。
腰曲輪跡。
明智長山城に隣接する天龍寺に明智一族の墓。
明智城の大手口。
平安時代明智荘と呼ばれた地域にかかわったのが
土岐明智氏。後に明智光秀を生む。
明智長山城は土岐頼兼が明智氏を名乗って
康永元年(1342)に長山城を築きその子孫が代々居城した。
弘治2年(1556)に光秀の叔父光安・光久が城主時
稲葉山城主斎藤義龍の攻撃を受けて落城。
当時の落城時の武将の塚。
西出丸跡。
逆茂木。
本丸跡に明智城の石碑。
大森城跡。
金山城主森長可に仕えた奥村又八郎元広の居城。
天正10年1582に森長可に攻められ落城。
大森神社に登城口がある。
山上には三つの曲輪が並ぶ。
いずれも周りに土塁や横堀を巡らす。
馬出しを備えた虎口や屈曲する
枡形状の虎口を備えている。
城郭全体を巡る横堀は圧巻。
今城跡。天文年間(1532-1555)頃に
地元の土豪である小池家継が築く。
横堀を巡らし曲輪を堀切・土塁で区画している。
井戸跡。
五輪の塔。
本丸跡。
土塁。
切岸。
横堀。
枡形虎口。
土田城跡。
文明年間1469-87に土田氏により築城。
弘治2年1556に土田源太夫の死後、
丹羽郡小折城の生駒親重・親正が城主となる。
親正は織田信長に仕え、
天正2年(157)に土田城を去る。
生駒氏の出世城とも云われ
信長の生母土田御前の実家の城。
五輪の塔。
4つの峯からなる土田山の峯に
主郭・出丸が築かれた。
一番西の峯に主郭、次の峯に
大手曲輪、中曲輪、一つ谷を経て
東の峯に出丸が配置。

急な勾配の道を登っていく。

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